昭和40年12月02日 朝の御理解



 信心する者は、肉眼をおいて心眼を開けよ。肉眼をおいて心眼を開くと云うこと。この方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと。一切が喜びで受けられると云うことは、私はここのところから、だんだん心眼が開けて来、肉眼から心眼に移って行くことがでける。そして肉眼から心眼が、開けて参りますそこから生まれて来るのが、いよいよ本当の喜び。
 金光様はこの方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんとおっしゃるから、おっしゃるからそれを喜びで受けようと、もう本当に神様の御都合に違いはないと、本当に凡夫で分かりません。だからなかなか喜びで受けられないようなこともあるけれども、けれども神様の御都合に違いはないと云ってそれを喜びで受けて行く様な信心から本当の心眼が開けて来る。
 心眼を開いて来れば、それがそのまま、即喜びで受けることがでける。例えば病気に致しましても、例えば、難儀に直面致しましても肉眼でみておる。普通私共の考えでみるとやはりそれは病気であり、それは困った、難儀なことであるのですから、それどもそれ心眼をもって見ると、神様の本当の御都合、どういう御都合かというと、よりよいおかげを下さろうとする。
 よりよくよい信心を進めさせて下さろうとする神様の、いわゆる神愛の現れであると云うことが分かるから、人は難儀なことと云うておる中にこのおかげでと云うて喜びでその事に対して御礼を申し上げることがでける様になって来るのである。ですから肉眼をもってしておる時には、丁度、云うならばその座頭さんのようなもんじゃ、しかもその座頭さんが沢山おりますから衝突をする。
 向こうからも座頭さんが来よる、こっちからも座頭さんが来よる。見えない者同志が両方からやって来るから衝突をする。でなかったらうっかりしておるから衝突をする。喜びで受けねばならんのをそれを喜びで受けきらん。例えばよく意見が衝突すると云うことを申しますですね。あれなんかは云うなら盲と盲が行き当たっとるもんだと私は思う。向こうがぶつかってきてもこちらが目が開いとるならよけることはでける。
 一つの事が為されていく時には様々な意見が交換される。交換されるだけならよいけれども、衝突すると云うことはあってはならんのである。例えば、意見が衝突すると云った様な場合は、いよいよ自分が盲であることの自覚、いわゆる喜び不足であることを先ず知らなければいけん。衝突するでもそうである。うっかりしとるから衝突するのである。自分がうっかりしておったと自分の心に金光様有難うございます。
 有難うございますと云うて心の中に喜びがいっぱいである時には、それを例えば向こうの方から衝突してきてもこちらからそれを柔らかく受けることが出来るから衝突にはならん。どうでもひとつおかげを頂きまして衝突の無い日々、衝突の無い争いの無い世界に住みたいと私どもは思う。そういう世界をいわゆる信の世界、信ずる人の世界、真の世界、云うなら神の世界である。
 そういう私は信心を私は高度な信心だと云うのではなかろうかと思う。そういう信心を頂かして貰うていよいよおかげを頂き、この方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせんと仰るが苦労をしておる時には喜びが足りんのであり、喜びをもってこちらが受けようとしておる時には衝突はない。なら私は右と思う、私は左と思うと例えば意見を出し合うてはならんかと云うのではない。
 出し合うのはいいのである。そしてよりよい道を開く、頂いて行くのであるから。けれども衝突と云うのがあってはならない。衝突、例えばそういう時にはハアー向こうも盲ならこっちも盲と思わにゃならん。よし向こうは盲であってもこちらが目が開いといればよけることがでけるのである。信心する者は、肉眼をおいて心眼を開かして貰う、と云うことは私は本当の、いわゆる真の目と本当の目と正眼なのである。
 本当の事を本当の事と見える目である。私共が例えば病気が又は金が足りないとかと云うことをです、難儀と思うとる間はそれは肉眼を開いて心眼を開いていないからである。その病気がです、いわば難儀なことがです、本当に去年あたりこんな難儀なことになっとたらそれこそ難儀こんぱくであろうけれども、今年は段々信心が分からして頂いて、それは難儀でなく神愛であると云う様なことが少うし分かってきた。
 おぼろげに分かってきた。いわば肉眼から心眼が少し目が見えだしてきた。おぼろげでも見えだしてきたから、それがそういう風に頂けれるのである。それを確信して、神様の御都合として、神愛の現れとして頂ける。それがいわゆる、そのおぼろげな目から正眼を頂いて、本当のおかげを頂いた姿である。どうぞ一つ衝突のない世界、争いのない世界、争いのない家庭。
 信心は家庭に不和がなきが元と仰る。だからもっとそれを云うと、信心は自分の心の中に不和のないこと。自分の心の中に平穏無事であると云うことが元。もっと云うと信心は自分の心の中に喜びを頂かして頂くと云うこと。そこんところを信心をしとれば一年一年有難うなってくるとこう仰る。一年一年有難いという心が育っていくのである。そこにいわゆる和の心、平和の心それがもとである。
 それは自分の心だけではない。家庭だけではない、あらゆる場面に於てです、あらゆる場に於て私はおかげを受けると云うことは平和が元であると思う。和が元である。いわゆる衝突のない雰囲気、衝突のない世界。それが本当のおかげを頂いていくそれが元だと私は思う。何時も自分の心の中に腹が立ったりいらだったり、心が何時も波立っとるような心にはおかげは映じないと私は思う
 。何時も澄み切った、それでいて平静である。そういう心を目指さして頂いての信心の稽古。どうぞ私今日御神前に出らして頂きましたら座頭さんと座頭さんが丁度ごつんこしとるところを頂いた、御心眼に。そして今朝の御理解を頂いております。見えない者同志だから激突するのです。いくら婿さんが向こう、いわばぶつけてきてもです、こちらがよけるだけのおかげを頂いたらいいでしょうが。
 そこにいわばおかげの頂けれる世界、和の世界と云うのが頂けるのです。相手も傷付かんで済む、こっちも勿論傷付くだんじゃない。有難いと云うことになってくるのです。同時に衝突をする時にはそうだと云うのが分かっとっても人間と云うのはやっぱりうっかりしておるんですよね。ですからうっかりしておる時に「 ? 」する。金光様すいません、だからそういう時にはそういう心の状態にならにゃいかん。
 アラ自分の心の中に感情が出ておる。これはうっかりしておる時なんです。そういう時に鏡を見てごらん。顔にその感情がありありと出ておる。それには本当に金光様すいませんと云った様な心で、その心の状態を平静に、いわゆる和の心に変えていく努力と云うものが、精進と云うものが為されなければならんと思う。相手が座頭であってもこちらが眼が開いとれば衝突はありません。
 どうぞ信心するならば、肉眼をおいて心眼を開けと仰る。この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと、苦労のない世界を頂く為には、一切を喜びで受けていこうとする精進努力が必要である。それは初めの間は分かりません。やっぱり痛いことは痛い。腹の立つことは腹の立つ、けれどもです、よくよくそのことを、検討さして貰い思うてみてです。
 神様の御都合に違いはないと、云うなら元気な心で合掌してそれを受けていく気持ちにならせて頂く、そこんところを辛抱さして頂くような信心修行がです、肉眼から心眼が段々おぼろげながらでも開けて来る様な体験が生まれて来る。その体験が素晴らしい。そしてそれがいわゆる正眼のおかげを頂くということ。どうぞ肉眼でみる世界から心眼でみる世界へ移動していく。それを私は信心だと確信しておる。それを云うならば一次元の世界から二次元の世界に移っていくと云うことである。
 そこには争いのない世界、喜びの世界がある。神様が限りなくおかげをお恵み下さることの出来れる雰囲気とか、世界がそこにある。そこんところを私共が分からして貰う。それが現在の今の心ではそれが本当と思えない、そう見えない。そこで私共が本気で改まらして頂きますとです、本気で研かして頂こうと、信心とは本心の玉を研くものぞやと、信心とは日々の改まりが第一ぞと。
 その日々の改まりに焦点を置く。本気で研かして頂くと云うことに焦点をおかして頂きますとです、その事柄が問題がみんな自分の心を研く材料であり、改まらして頂くところのチャンスであると云うことを気付かして貰う。この方の信心は、病気治しの災難避けの神ではない。心治しの神じゃと仰る様に心治しを本気でさして頂こうと云うところに、もう今迄の難儀から回れ右をすることが出来る。いわゆるおかげの世界の方へ向かって一歩一歩進んで行くことがでけるのですね。
   どうぞおかげ頂かにゃなりません。